山口寛人 代表理事

Hiroto Yamaguchi

・兵庫県立長田高等学校、大阪市立大学 工学部建築学科
 ⇒卒業後、ゼネコンや設計事務所に勤務するが肌に合わず3年で退職

・NPO法人食と農の研究所 事務局長、産業カウンセラー
 ⇒心理カウンセラーを経て、食と農に関心を持ち、マルシェやアンテナショップを運営するが一過性のイベントに虚しさを感じ始める。

・社会活動家、自然栽培稲糀農家
 ⇒自身も稲作農家になり、現在10,000㎡以上の田んぼを兼業農家で運営。教育活動や空き家を改修した拠点活動など持続可能なコミュニティをつくるために日々邁進中。

[ 著書 ]
・オルタナティブジンセイ


代表プロフィール

1.レールの上を歩くだけのジンセイ ~23歳

今でこそ食育について色んな所で話していますが、子供の頃は超偏食でいまだにシイタケや貝など嫌いなものも多く、、幼稚園の頃は病弱で休むこともしばしば。しかし、外で遊ぶのは好きで、昔はガキ大将のジャイアンみたいな傍若無人ぶりを発揮しながら、公園や山で走り回る日々。この経験が30歳を過ぎてから影響してくるとは思いもしませんでした。

小・中学校は、それなりに運動や勉強もできたので天狗になっていましたが、高校で進学校に進むとありとあらゆるものがへし折られ、自信をすべてなくし、自分はダメな人間 だと暗黒日記を書きながら自分を蔑む日々を過ごすことに。この経験が人の痛みを知り、これ以降の自己内省にはつながっていきました。


 一浪後、大学は親に薦められるまま建築学科に入ったものの、一切興味がもてず、麻雀とゲームの日々。アーチェーリー部に入り、ようやく人並みの楽しいキャンパスライフを送るが、典型的な 敷かれたレールをただ生きるだけの人生 を過ごす。サラリーマンだった父を見て、サラリーマンにだけはなりたくなかったが、壊滅的な視野の狭さで、ケーキ屋、芸能人、サラリーマンの3択しか将来の選択肢が思い浮かばなかったため、消去法で嫌々サラリーマンになることに。

2.暗闇から目覚めたジンセイ 24~26歳

 この当時は建築に興味がなかったので、それがバレたのか就職活動は全滅・・
 最後の頼みで大学の推薦枠を使わせてもらい、なんとかゼネコンに就職。しかし、案の定やる気がないので、仕事中うまくさぼる能力だけが向上。とはいえ、工事現場の仕事は激務だったため痩せ細り、いつしかこのまま現場から落ちて 死んだ方が楽になれるのでは と思うこともしばしば・・


 すると、それが半分現実となり当時の新人最速、入社数ヶ月で右腕を骨折する事故を起こしてしまい一ヶ月の入院、半年間のリハビリ生活を送ることに。上司や同僚の憐みの目を見てもう終わったと思うが、ここで 第1の目覚め が起きる。入院したことで 自分と向き合う 時間ができ、高校の暗黒時代に自問自答していた「自分は何のために生まれてきたのだろう」という問いに再度真剣に向き合うことに。


 その1年後、会社を辞めるか悩んでいた時に、今ここで死ねば必ず後悔する、「もし明日死ぬとすれば今の仕事は続けるだろうか?」という問いが突然頭に降りてくる。
 「NO!」
 思いのほか即答できた自分にビックリしながらも、この翌日会社に辞表を提出。

 会社を2年で辞めたもののその後は何も考えていなかったので、路頭に迷い、安心と安定を求める母親との戦争が勃発。この時は説得されて設計事務所に再就職するが案の定1年しかもたずに退社。若気の至りで、生活費を稼ぐだけの人生なんて死んだ方がましだ!と思いながらも不安と怖れ、自信の無さから動けなくなっていた時、あるカウンセリングを受け、第2の目覚め が起こる。


 それは5歳の頃から長男ということもあり、母親の期待に応えるために生きようとしていたということ。確かに進学校も建築もすべて母親の言われる通りにしてきました。そんな自分を初めて客観的にみることができ、小さなころから従順に生きてきた自分がどうしようもなく愛しくて、抱きしめたくなったのです。そして、これからはもう 自分のために生きよう と自然に思えるようになりました。その瞬間、今まで靄がかかっていた視界もクリアになり、生きる力が底からマグマのように吹き出てきました。


 とはいえ、そんな豹変した息子に当然母親は驚きを隠せず、「毎日あんたのせいで心臓が痛いです」メールが届くように・・
 一番身近な人間関係である親子関係。親との関係は人生を自由に生きる上で一番始めに取り掛かるべき根底のものだと感じています。親と確執があるとそれは大人になってもずっと心のどこかでくすぶってしまい、それがまた次世代の子ども達へと影響することもあります。
 親子では感情的にもなりやすいため、私の場合は時に手紙を書いて文通したりしながら、親と向き合うことで自分とも向き合い、数年後自分に自信がもて始めた時にはこんな生き方もあるのだと親にも理解してもらい、今では一番の支援者として応援してくれています。

3.地域と農、目からウロコのジンセイ 27~29歳

自分のために生きようと思ったものの、レールの上しか歩いてなかったので自分が何をしたいのか?それがちんぷんかんぷんで何もわからない・・
 そんな時、たまたまある企画が目に留まりました。主に都会の大学生20人前後で1台のマイクロバスを借りて、岡山や島根の限界集落をまわり、地域おこしのお手伝いをするというもの。社会人だった私は学生たちに始めざわつかれたのですが、快く受け入れてくれて都会育ちだった私は約1ヶ月間かけて 初めての田舎体験 をしました。


 この時初めて本格的な農業体験をして、自然とふれあうことの素晴らしさを体感することができました。また、地域での交流会では、市長や公務員、社長、自由人、主婦に学生など多様な価値観をもつ人達と話すことで、自分が思っていたより 人生って自由 なんだと目からウロコが落ちる体験を沢山させてもらいました。そして、今まではお金こそが一番の価値で幸せなんだと思っていたのが、シンプルに志ある仲間と自然の中で美味しいものを食べ、ワイワイ過ごすことにとても幸せを感じ、幸せに対する価値観 も180度変わってしましました。
 地域や農には宝の山がたくさん眠っています。食、教育、環境、地域経済、コミュニティなど方法次第ではこれらすべてを包括して表現できるものが農や地域にはあるとこの時確信できました。これが第3の目覚め となります。

4.まちむらコーディネーターのジンセイ 30歳

 地域や農に関心を持ってから、勉強会で知り合った山梨のすもも農家さんと意気投合して、山梨でも広がる耕作放棄地を若者で再生していく NPO法人ほったらかし畑「再耕の結」 を立ち上げました。ひたすら草を刈り、竹を何百本も切り、すももを植樹して、富士山をみながら食べるおにぎりは何よりの幸せでした。


 その後、地元の神戸でも何かできないか探していた時に、神戸大学の農学部生だったメンバーで立ち上げた NPO法人食と農の研究所 が農水省から事業委託を受けて研究員募集していたのを偶然みつけ、拾ってもらうことに。神戸、大阪、京都で環境保全型の農業を広げていくため、商店街やJR構内、デパートなどでマルシェや地域の情報を発信するアンテナショップを開設、まちとむらをつなげる コーディネーター活動をここでは学ばせてもらいました。

 農家は作物を栽培するだけで忙しく、特に農薬や化学肥料を使用しない有機農家は小中規模が多いため、栽培に手間もかかり、販売や推進活動まで広げていくことは難しい面もあります。そこで、中間にコーディネーターが入り、農家や地域の良さを情報発信、食育や農業体験イベントなどを通じて都市と農村をつなげていく活動がこれからも求められます。

5.オルタナティブ教育のジンセイ 31歳

 高校生の頃、唯一関心をもった心理学。とはいえ子どもながらに心理学では食べていけないと思い諦めていたのですが、ある学校法人で不登校や引きこもりの 心理カウンセラー や障害者支援の活動をバスに乗った後、数年させてもらっていた時期もありました。その際、既存の教育の課題、核家族化や共働きなど家庭環境やコミュニティの崩壊も目の当たりにして、自分なりに納得のいく教育を模索していたとき、 オルタナティブ教育 という概念に出会ったのです。

 画一的で効率的に子どもを管理するのではなく、少人数制で個を尊重し、一人一人の可能性や才能、好奇心を引き出す 第3の選択肢ともいわれるオルタティブ(既存のものと取って替わる)教育。それを実践するシュタイナースクール、デモクラティックスクールなど日本全国のまだ数少ないオルタナティブスクールをこの時期にまわることで、教育の様々な可能性や多様性 を学ぶきっかけとなりました。

 そして、コーディネーター活動をしながら、オーガニックショップ&レストランの運営も手伝っていた頃、食に関心のある家庭は教育に関心をもつ家庭も多く、自然に教育のことについて語り合う小さなコミュニティができつつありました。そのとき、オルタナティブ教育の可能性をみんなの前で話をさせてもらい、2012年に オルタナティブスクールを創る会 を発足。その後、話し合いの中で自然を活用した教育は欠かせないということになり、里山で田んぼを借り、初期の教育活動をスタートさせ、後のオルタナティブビレッジへと変化していきます。

6.エコビレッジのジンセイ 32歳

農や教育が自分のやりたいことではあるけれど、どこか自分の中で腑に落ちない、物足りなさが心の中にずっとありました。数多くのマルシェやイベントをしてもその場では盛り上がるが、終われば皆日常へ帰っていく・・その 一過性に虚しさ を感じていたころ、ソンミサンマウルという韓国のコミュニティを知りました。

ここは必要に応じて起業が次々と生まれるコミュニティで既存の教育に疑問をもった家庭が数組集まり、始めは自分達で納得のいくスクールを作ろうと日本のオルタナティブスクールを参考に、小・中学校を創ってしまいます。そして、カフェが欲しいからみんなで出資してカフェを創り、アトピーの子がいるからオーガニックの惣菜屋、図書館、劇場など次々と自分達の必要に応じて暮らしを創っていきました。このような 自分達の暮らしを必要に応じて一から創り上げていく ということにとても感銘を受けました。


 それから、日本にあるエコビレッジやコミュニティ、カナダのパーマカルチャーを元にデザインされたコミュニティへ視察に行き、すべての土台となる コミュニティ から創り上げていくということに手応えと確信がもてるようになっていきました。

7.持続可能なコミュニティのジンセイ 33歳~

カナダへ行った後、ある直感がありました。
イタリアのダマヌールへ行けば、心が満たされない最後の足りなかった1ピースが埋まるという直感です。ダマヌールは、世界のエコビレッジを調べていた時に偶然見つけたのですが、精神性と現実性のバランスが取れているように感じたので、いつからか行きたいと思うようになっていました。


 そんな時、ちょうど現地で視察ツアーが近々開催されるということでしたので、早速申込したものの参加者は私だけで開催できないとのこと・・あと4人必要ということだったので知り合いに声をかけまくり人数を集め、何とか開催してもらうことに。日本では全く知られていませんが、欧米では有名で国連からも表彰を受けており、世界でも数少ない40年以上の歴史をもつ持続可能なコミュニティです。


 ここではコミュニティに必要な食や農、教育、福祉、自然エネルギー、仕事創り、地域通貨、憲法、アート、精神探求、ここでは言えないことなどがバランスよく実践されてました。どれもレベルが高く、私がコミュニティについて想像できることがレベル10だとすれば、ダマヌールはレベル1000以上のことを実践しており、これが 地球最先端なのではないかと思うほど大きな衝撃を受けました。
 それと同時に、悔しさが心の底からこみ上げてきました。世界の人達はこれだけ真摯に現実を受け止め、地球や人類のために今できることを実践しているのに、日本では食のことや環境、教育などすべてが遅れている・・


 しかし、ただこれを真似るのではなく日本人だからこそできること、日本の良さを表現した日本オリジナルの 持続可能なコミュニティ を創りたいという気持ちがこの時自然と湧いてきて、これが自分のライフワークなのだと腑に落ちたのです。
 これでようやく長かった自分探しの旅も終わりを迎えました。自分のやりたいことが100%認識され、心が満たされたのです。この状態になるとあとは具体的にどのように表現していくのか、それを淡々とやるだけです。

 コミュニティ表現の1つで生活の基盤となる「農」をまずは実践していくために、三木市で出会った師匠の下、一年の修行を経て 自然栽培の稲作農家 になりました。農業体験イベントをやりながら農家さんとふれあう中で自分でも作りたくなったのと、日本人のソウルフードでもある稲に関わりたくなったのです。親戚は皆サラリーマンなので、0から築き上げていくのは大変なこともありましたが、好きなことは苦労とも感じません。自然から学べることも多く、今では田んぼと添い寝したいくらい楽しくて仕方がありません。その過程で、空き家が見つかり、初めての拠点創り「ムラノマ」をきっかけに2013年NPO法人オルタナティブビレッジを立ち上げることになりました。


 オルタナティブビレッジ は、これから出会う人やもの、場所によっても柔軟に変化していきます。ここまで読み進めて、少しでも関心や興味のあるものがあったなら、ぜひオルタナティブビレッジの活動に関わってください。それが自分を変えて、社会を変える1歩になるかも?